色彩  

一枚の絵をめぐる二人の物語    





【鴇色】

 梅雨明けが宣言されてから数日。空は晴れ渡り、夏の雲が泳いでいた。
 画伯から一方的な約束を取り付けられたのが、およそ一か月前。今でも白い絵画を渡すつも
りはない。しかし、あの場でハッキリと断らなかった私も悪いだろう。だから私は、彼の屋敷
の前にいる。

 扉を軽く叩くと、しばらくして憂鬱そうな声がした。名前を告げると、屋敷の主は若竹の着
物で姿を現した。
「どうぞ」
 招かれたのは、先日と同様に奥の間だった。
「画伯、本日は」
「はい、どうぞ」
 私の言葉を遮って差し出されたそれは、桃の花に寄り添う鳥が描かれた絵だった。構図とし
てはありきたりなものだが、桃の薄紅と儚げな鳥の配色が絶妙で、いや…そんな理屈など後か
ら考えたものにすぎない。私の心は、見た瞬間に奪われていた。
「気に入った?」
「えぇ、とても」
「じゃあ、返して」
 何かあるのかと思って鳥の絵を差し出すと、画伯は緩く首を振って言った。
「それじゃなくて、白いやつ」
 件の絵画のことか。あれを渡してしまったら、画伯に燃やされてしまう。そうしたら、二度
と見ることができないし、二度と感動することもなくなる。それは、嫌だ。
「あれはダメです」
 はっきりと、きっぱりと、否定する。
 彼は眉を顰め、そして諦めたように溜息をついた。
「じゃあ、そっちを返して。捨てるから」
「何故ですかっ。これだって美しいのに」
 とっさに絵を抱きしめて、彼の手から逃れる。画伯はおそらく、ご自分の絵が魅力的だとい
うことをわかっていないのだろう。だから簡単に「捨てる」なんて言えるのだ。私は思う、ど
んな絵にも存在価値があるのだ、と。ましてや、これは私が感銘を受けた画伯の絵だ。失わせ
てなるものか。絶対に。
「ねぇ、どうしてそんなにも情熱を傾けられるの」
 彼は不思議そうに言った。その顔から感じられるのは、皮肉ではなく単純な興味。純粋に、
そう思っているのだろう。
 私が情熱を持つ理由。そんなことは、わかりきっているでしょう。
「あならに惚れたからです」
「それは……」
 驚いた顔をしたのち、くすくすと笑う画伯。何が起こったのかと疑問に思っていると、彼に
尋ねられた。
「私に? それとも、私の絵に?」
 それを聞いて、やっと失言に気づく。顔が赤く火照るのがよくわかった。
「もちろん、画伯の絵に、です」
 少し強調して発言したが、笑い続ける画伯に伝わっただろうか。
「ごめん、ごめんね、結崎。あまりにもまっすぐだったから、つい…ね」
 軽く咳払いして不満を表すと、彼も笑みを収めてぽつりと言った。
「私にはわからないよ。絵画なんて、時が経てば色彩は褪せてしまうのに」
「それはそうですが…」
「絵画が永遠だなんて嘘。美しさは一瞬。そんなものを愛するというの?」
 確かに、歳月が経てば色褪せてしまい当初の面影が残らない作品もある。しかし、
「美しさは一瞬だとしても。感動は永遠です」
 初めて出会った感動は忘れることなどないだろう。もし忘れていたとしても、絵画を前にす
れば蘇る。それと同時に、歳月を経た現在の絵画に感動する。美術品とは、そういうものだ。
 画伯はゆっくりと背を向けた。
「まぁ、いいや。気に入ったなら持って帰って」
 当初は、白い絵画と交換でという話だった。だから、一方的に貰うことへの罪悪感がある。
返すつもりで絵を差し出すと、彼はちらりと振り向いて言った。
「捨ててもいいなら、置いて行けばいい」
「それはダメです」
 右手を慌てて引っ込める。
「また来月。新しい絵をあげるから、」
 画伯はその様子にくすりと笑いをこぼして、屋敷の奥へと消えていった。





執筆:2013年 6月頃
前ホームページに載せていた小説の改稿になります。

掲載:2013.06.27