色彩
一枚の絵をめぐる二人の物語
【色のない世界】
『これは一枚の絵をめぐる二人の物語である』
「君に見せたい物がある」
そう言って私を連れ出したのは、かつての級友である市川子爵だった。彼も私も家長を亡く
し、仕方なしに家業を継いでいる。だからなのかもしれない。互いの趣味を知る仲になったの
は。
久しぶりに訪れた子爵邸は、相変わらず豪奢だった。応接室に備え付けられた絵画を横目で
見て溜息をつく。私のような小さな画商には扱えないものだ。
「待たせたね、結崎」
赤い絨毯に靴を沈めて歩いてきた市川子爵は、手振りで使用人に指示を出し、布の掛けられ
た額を長椅子に置かせた。
「これか、見せたい物というのは」
「そうだ。お前好みの絵だと思う」
もったいぶるところは彼の性格だと理解しているが、心が急いている時には辛いものだ。軽
く眉を顰めると、市川子爵は喉の奥で笑いながら言った。
「これ以上、君を怒らせたら怖そうだ。ほら、好きなだけ見ればいい」
目の前に広がるのは、白。土台となっている紙も、描かれた花も、色彩など呈しておらず白
一色のみだった。鮮やかさとは縁遠いその絵を、私は魅入られたように見つめていた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。肩に手を置かれた感触に、現へと戻る。
「そんなに気に入ったのか」
しかし、彼の声も遙か遠いもののように聞こえ、私は視線をそらさずに諾と答えた。
「まったく、仕方がないな。それは君にあげよう」
「…えっ」
「そんな顔をされてはあげないわけにいかないだろう」
そんな顔とは、どのような顔なのだろうか。確かに私は気持ちが顔に出過ぎるらしいが、そ
んなに驚いていたのだろうか。
「何を混乱してるんだ。さっきはあんなに嬉しそうな顔をしていたのに」
嬉しそうな顔だったのか。確かに、こんなに魅力的な絵をもらえるのは嬉しいけれど。
「いくらだ」
見たところ有名なものではなさそうだからそれほど値が張ることはないだろうが、財布の中
身が乏しいが故に警戒してしまう。
「いらないよ。売りつけるために呼んだんじゃないんだ」
そこそこの値段を告げられることを覚悟していた私は、胸を撫で下ろした。しかし。
「その代わりと言ってはなんだが、君の顧客に夷隅伯爵がいただろう。彼のご息女との茶会を
設けてほしい」
夷隅伯爵は気難しいひとで、一人娘を溺愛していると聞く。要するに、ただより高いものは
ないという話だ。
降りしきる雨にうんざりした午後。郵便受けを覗くと、手紙が二通ほど届いていた。
ひとつは高級な厚手の紙に神経質そうな文字。そして箔押しの家紋。友人との約束があるの
で連絡を取ってみたが、折良い返事ではなさそうだ。
もうひとつは、紫陽花が描かれた品のある封筒。色彩の濃淡で咲く花は、何故か私の心を惹
きつける。裏を返したが差出人の名はどこにもない。妙なる物が来た、と思うものの、そのま
ま捨て置く気になれず小刀で封を切った。
『長雨の候、突然のお手紙をお許しください』
繊細な筆跡から、封筒の紫陽花を思わせる。するすると読み進めていくと、先だって手に入
れた白の絵画を返してほしい、との旨がしたためられていた。
手紙の主が正しいならば、白の絵画を描いたのは彼である。手放したものの今一度手元に置
きたくなったのか、なんらかの原因で手放すしかなかったのか。私には推測しかできない。そ
もそも、手紙の主があの絵を描いたのだろうか。
画廊として美術品を飾ってある部屋へ行き、白の絵画を眺めた。そこにある銘は手紙の主と
同じ名だった。名前だけ騙ることは容易いだろう。そんな考えも浮かぶのだが、彼の言葉を信
じようと思う。なぜなら、封筒の紫陽花から受ける印象が、壁に掛けられている白い花と同じ
なのだ。画商として数多く絵画に触れたからこそわかる。それは譲れない自負だった。
「返事を…いや、会いに行くか」
古き良き日本家屋。その門扉をくぐり、母屋の入口で考えこむこと一寸。思い切って木戸を
叩いた。
「だれ?」
しばらくして、透明感のある声がした。
「画商の結崎と申します」
「あぁ、」
ガラガラと扉が開くと、和服に身を包んだ男性と対面することになった。肩口に切りそろえ
られた髪。微かに香る花の匂い。どちらかといえば女性的な造作に、私は見惚れていた。
「どうぞ」
言葉少なに促されて、家に入る。奥の間まで通されると、顔料に含まれる金属が鼻につく。
しかしそれは慣れ親しんだものだった。
「こちらで創作をされていらっしゃるのですか」
なんの意図もない単純な質問。しかし彼は小首をかしげて考えていた。
カチ、カチ…と時計の音がする。正確に測ったわけではないが、おそらく十分ほど。気まず
い沈黙を破ったのは、画伯だった。
「そういうことも、多い、かな」
この言葉が何に対して発せられたのか戸惑うくらい、彼の声は無機質だった。無関心と言っ
た方が正しいかもしれない。画家にはひねくれ者が多いが、彼もそのひとりだろう。
「あの、さ。絵、返してくれない?」
話を強引に切り替えての唐突な本題に戸惑う。しかし、差し出された手が白くて綺麗だな、
と関係のないことを考える余裕は、ある。だが、
「燃やしてしまいたいんだ」
この言葉を聞くまでのことだった。
「何故、あんなに素敵な作品を燃やしてしまうのですか! この絵は、私の心をこんなにも揺
さぶったのに。反対です。私は断固として反対です」
画家と言うものは、絵が好きだから画家になったのではないのか? 自信があるから売った
のだし、気に入っているから買い戻すのではないのか?
何故。何故。そればかりが私の頭を巡る。
「私はね、結崎。あの絵が嫌いなんだ」
信じがたいことを聞いた。そして驚きの後に訪れたのは、怒りだった。
「何故ですか。最高の作品なのに!」
怒鳴りつける私の前で、彼は不思議そうに小首をかしげていた。
作品の良さがわからない人のところにあっても、作品は報われない。それに、燃やしてし
まったら二度と戻らないのだ。私を惹きつけた白い絵画を失いたくない。絶対に。
その想いから私は踵を返し、玄関で靴を履いた。立ち上がると、追いかけてきた画伯が背後
に立っていた。
「来月。新しい絵をあげるから、あれは返して」
私は黙って画伯の家を後にした。
『そうして結崎冴と佐伯仁の関係は始まった』
執筆:2013年 6月頃
前ホームページに載せていた小説の改稿になります。
掲載:2013.06.25