思ひ出  

瓶に残される後悔の酒    





【思ひ出】


 もうすぐこの命も尽きるでしょう。老いてくると、逝き際というのは自然とわかってくるもの
です。私は枕元に置かれた酒瓶を手に取り、端をゆっくりと撫でました。これはあの人の形見と
でも申しましょうか。私にとって、懐かしく、愛おしいものなのです。


 あの人のことを思い出すとまず浮かんでくるのは、晩酌をしている後ろ姿でした。庭を臨む縁
側へ座って、咲き誇る花々を肴にゆっくりと杯を傾けるのです。私は障子で仕切られたこちら側
から、ただただあなたを眺めるだけ。それは、私が足を失った日から延々と続く習慣でした。で
も、あなたは知らないのでしょうね。障子ごしとはいえ、部屋に伸びた月影があなたの心を映し
ていると。
「小学校の頃を覚えていますか?」
 会話はいつも唐突です。大抵は、私から。それに答えてくれる時もあれば、そうでない時もあ
りました。
「覚えてるよ。俺とお前は、何でも競いあう仲だった」
 あの頃は二人でいいことも悪いこともたくさんしました。
「そうですね。あなたは勉強もかけっこもできて、先生からも信頼されていましたよね」
 遠い昔を懐かしんでくすくすと笑うと、あなたは杯を置き、背を障子に預けながらゆっくりと
息を吐きました。そして、苦虫を噛み潰したような声で一言。
「悪かった」
 彼がこのように言うときは大抵、私の足のことを指しています。先ほどの『かけっこ』という
くだりが、彼の罪悪感を刺激したのでしょうか。彼の中で私が足を失ったあの事故が思い出した
くない類の記憶だということは知っています。だから、わざと私は思い出させるような言葉を言
うのです。だって、ほうっておいたらあなたは手の届かないところへ行ってしまうでしょう。意
地悪だと罵られ、卑怯だと蔑まれてもかまわない。私は、私を置いてどんどん躍進していくあな
たを縛りたいだけなのです。
 そんな心中を知ってか知らずか、彼がぽつりと言いました。
「お前が女だったら、結婚できてよかったんだけどな」
 結婚という言葉に心が揺れます。もし私が女だったら、彼はずっと共にいてくれたのでしょう
か。しかし、私は男ですから、結婚などできるはずもありません。そもそも、私が抱いているこ
の想いは許されないものなのです。
「責任など感じなくてもいいのですよ。あなたはこうやって来てくれますし」
 結局、私は友人という居心地のいい場所を手離すことができませんでした。
「だけど、お前は俺をかばってそんな怪我を負ったのに。……俺はもう、何もしてやれない」
 後悔と無力感を表すように影が揺れました。そして、彼は懐から何かを取り出すと床に置き、
酒瓶もそのままに帰っていきました。
 『もう』という言葉にひっかかりを感じ、慌てて障子を開けると、そこには赤い紙がひとつ。
中身なんて見なくてもわかります。わかっているのに、後を追って引き留めるすべを私はもちま
せん。一緒に置かれた酒瓶にすがり、果てない後悔に涙するのでした。


 あれから幾年月。あの人に会うことはありませんでした。手の中にある酒瓶に、抱え続けてき
たの後悔をそっと囁き、私は人生の幕を下ろしました。




執筆:2005年頃
初出:前ホームページ(名義も異なります)
掲載:2013.06.20